はじめに…約2ヶ月間、全く予告せずに更新を放置してしまった事実をお詫びします。
犬も食わない理由ですが、何度目でしょう…私のメンタルの問題です。詳細は語る必要も需要もないので避けます。
しかし、その鬱な心に差し込んだ希望…
まだ公式発表はされていませんが、概要からも確定と言っていいでしょうね。
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内容は堕天録ではなく、オリジナルゲームとの一文がありますね。
実はカイジ2のパンフレットには、佐藤監督による次回作への前向きなコメントとともに、
福本先生による「続編があるならオリジナルギャンブルをやりたい」との言葉が掲載されていました。
流石、有言実行という訳ですね。
17歩が麻雀、救出ゲームはカイジ不参加、ワン・ポーカーはチャンマリを仲間とするまでの流れが不可欠であることなど、シナリオ上の不都合が生じるという理由もあるでしょう。
しかし私としては、その辺りの事情が解消されたとしても、一本丸々をオリジナルエピソードとするのは大賛成。
結局のところ、過去二作の映画版における問題点、不満点は原作との比較によって浮き彫りになった部分が大きいですからね。
例を挙げればキリがありませんが、限定ジャンケンの簡略化によるゲーム性、心理面での深味の消失が顕著です。
しかし、実際問題として2時間程度で全てのカイジ的要素…つまり心理描写や間を演出するのは不可能ですし、単純に大衆映画としての画が持ちません。
とはいえ、そこにこそ原作の魅力が詰まっている。
緻密な心理の起伏やロジックによって「流れ」にも必然性、説得力を持たせるほど、構成が完成されています。それだけに、些細な変更点によってクオリティは瓦解してしまいます。
ですから身も蓋もない話をしてしまえば、カイジは絶望的なほど映画には不向きな作品です。
中途半端に原作をなぞっても、どこか縛られた画作りや展開になることは経験済み。
仮に極限まで近付けたとしても、漫画は漫画、映画は映画、やはり異なる媒体です。
漫画的に完璧な手法も、それが映画で通用するとは限らない。
それならば、映画的なカイジを一から作り出せばいい。
その為には原作再現という枷を取り払う必要があります。
結果的に出来上がったカイジは漫画的ではないかもしれませんが、それで全く問題がない。
何故ならそれが「映画カイジ」だから。
つまり漫画は漫画で100点のカイジ、映画は映画で100点のカイジ、二つのカイジは不可逆な関係…それで正解だと思います。
もちろん、原作再現の枷という要素は、何もマイナス面だけではありません。
映画性を追うあまりのキャラ崩壊、シナリオの矛盾などの暴走を制するためのプラスにも作用します。
オリジナルエピソードの采配を振るうには、そもそも三作目に着手する権利を得る必要がある。それは言うまでもなく過去二作の実績に依ります。
そして、その二作が「実績」と言える作品となったのは、原作再現の枷によって大外れを避けたから。
一作目から完全に映画的なカイジなら…どうなっていた事でしょう。大成功…かもしれません。
しかしジャンケンや橋、Eカードを避けた結果の大失敗…となれば、間違いなく黒歴史そのものです。
逆に完全に漫画的なカイジなら…たとえば限定ジャンケン一本のシナリオで、心理面まで丹念にしつこいまでに描いた作品だった場合、成功していたでしょうか。
結果はわかりませんが、仮に二作目へ続いたとして、これがVシネマなら問題ありません。しかしあくまで全国ロードショーと考えた場合、ニッチな内容に制作規模が縮小されると私は思います。
つまり、そこに元来のカイジが孕んでいるアングラ感は良くも悪くも残ったまま。
現在のように名前を出せば殆ど誰もが知っている、そんな市民権をカイジは得ていなかったかもしれません。
その中で突然の映画的なカイジが出来たとして…世間的に受け入れられる体勢が構築されているとは思えない。
よって原作再現の枷を適度に入れ込んだ過去二作は、どっち付かずの置きに行ったシナリオ…だとしても、少なくとも三作目の実現、オリジナルエピソードの成功という見地においては最善手だったと思います。
二作目には「姫と奴隷」というオリジナルがありましたが、見栄えのインパクト重視のまさに映画的なギャンブルでしたね。
それを差し引いてもゲーム性、心理戦要素が希薄すぎましたが、あれはあくまで沼の副産物。
シナリオの軸に据えるエピソードではありませんでしたから、意気込みがあったように福本先生も今回は更にゲーム性を煮詰めたギャンブルを考案していることでしょうね。
現在進行形の原作、24億脱出編がギャンブルを描いていないのは、つまり映画用のネタを優先していたため。
公開は2年後と、まだまだ語るには早いのですが、今から非常に楽しみです(^^)
※カイジ感想等について更新を再開します